清華七家というのは、久我、転法輪三条、西園寺、徳大寺、花山院、大炊御門、今出川(菊亭)の七家の事。

西園寺家は、主に鎌倉時代に天皇家に娘を妃として送り込み、この関係から権力を握っていた。

今出川(菊亭)晴季は権大納言であった二十二歳の時に、駿河に住むことになった武田信虎の晩年になってからの娘で、永禄三年の一月九日に、当時十六歳になっていた、信玄の異母妹のお菊御料人を妻に迎えている。そしてこの縁談は、今川義元の斡旋によるものである。

そして彼の父の今出川公彦と晴季は、武田家と朝廷を結ぶパイプ役として、しばしば甲府に下向して、外交的役割を果たしていたようである。

天文二十二年の七月二十三日には、今出川公彦が、義信が将軍の足利義晴から偏諱を賜る時の使者として、甲府に下向している。

また、今出川晴季はこの信虎の娘のお菊御料人との結婚以外にも、後に豊臣秀吉に接近し、彼の関白任官を勧めたり、また彼の甥の豊臣秀次に娘の一の台を嫁がせるなど豊臣政権と親密な関係を保った。

 

このように、この今出川晴季も、積極的に大名に接近した公家のようである。ただ彼がこのお菊御料人を娶った時は、彼は既に二十二歳であり、正室は正室として、既に万里小路惟房の娘を迎えていたようである。

よって、おそらくこのお菊御料人は、彼の側室として嫁いだと考えられる。そして何といっても、この今出川晴季の子供としては最も有名であると思われる、豊臣秀次の処刑された悲劇の正室である一の台は、彼らの結婚前に生まれているので、確実にお菊御料人の娘ではないようである。ただ、養子の堯円を除き、晴季の長男の季持、日桓、秋元修理亮の正室と矢島秀行の正室は、晴季とお菊御料人の結婚以降に生まれているようなので、彼らの子供の可能性もあるが、はっきりとはわからない。