いつまで経っても、このサイト運営の、思うような具体的手ごたえがないまま、とうとう、今年も四四二回目の、三条夫人の命日があと二日後に来てしまいます。

いよいよ、この日にサイトに掲載できる、三条夫人に関する吉報が欲しい所ですが、相変わらずそんな事はなく、とても残念です。

これだけ、かつてに比べ、実証的な戦国女性研究も、だいぶ進展してきた昨今でさえ、いつまで経っても武田氏研究周辺では、ドラマや小説や歴史作家による一般書などを主たる発生源として、信頼性の薄いデマばかりが飛び交い続け、研究の方も不毛な状態が続き。そしてこのように、一向に実証的な研究をという動きが希薄なのに耐えかね、ついに私なりの長年の武田家の女性達に関する、実証的・総合的研究成果も、今回ライトブック「武田家の女性達 上・下」として、発表する事ができた事ですし。そろそろこの日を区切りに、今後の状況しだいによっては、当サイトの無期休眠あるいは閉鎖も、検討し始めています。

 

 

聞く所によると、サイトの平均寿命というのは、約三年らしいですし、やはり、三年というのは、そろそろきりのいい頃なのでは?という気がします。

具体的に、内容がどう思われているのかも一向にわからないサイトを、自己満足だけで、なかなか記事も思いつかなくなっている中、黙々と更新を続ける事が、かなり苦痛になってきています。

三年近く経っても、ネット上の戦国ファンから特に何も反応がないという事は、私のサイトが特に彼らの関心や反応を喚起しない、存在だという事なのでしょう。それに、私生活の事情からも、いつまでも具体的に報われる様子がない、疲労感のみが募っている、このサイト運営に、これ以上時間と労力を費やすのが、難しい状態になってきています。

 

 

 それに、すでに書いた通り、その大半は、やはり、最終的に信玄の跡を継いだ息子という事で、何かとひいきされやすい武田勝頼とその母諏訪御料人好きばかりという武田ファンの現状、かといってなかなか新たに、三条夫人個人に積極的に関心を持ってくれる人々を増やす難しさや、(これもいつまで経っても、相変わらず、結局数多い悲劇的な戦国女性の一人として、存在が埋没してしまいがちで、改めてその存在に関心が持たれる様子が、一向にない。私自身の力不足も、あるのでしょうが。)また、どうしても武田氏研究の構造的にも、最終的に信玄の跡を継いだ息子勝頼とその母親諏訪御料人寄りの見方になりやすい傾向は、武田氏研究者側にも、見られますし。

 

また、すでにいくつかそうい箇所が見られるように、一応、二次史料ながら、現在一級史料として扱われているとはいえ、その記述の信憑性には、疑問を持たれる箇所もある「甲陽軍鑑」の内容に、相変わらず強く依存している傾向が目立つのも、現在の武田氏研究の問題点だと思います。

 例えば、次のような事とか。

日頃から信玄が師とも仰ぎ、この甲陽軍鑑中にも、この彼にまつわる話が記述されているにも関わらず、武田義信の謀反時に、この時父子の仲を和解させようと奔走していたのは、すでにこれも甲陽軍鑑にも記述のある、北高全祝、甲天総寅だけではなく、この快川和尚も含まれていたというのは、十分注目すべき事であり、記述されていても、然るべき事ではと思われるのに。

 

しかし、これは単なる記入洩れか?それとも編纂者の故意なのか?いずれにせよ、やはり、「甲陽軍鑑」と言えども、史料として万能ではないのは、この出来事が記述されていなかった事実からしても、明らかだと思いますし。

そして私の現在の武田氏研究に関する問題提起としても、武田義信の謀反に関しては、信玄の方にも悪い点があると、快川和尚が岐阜の南泉寺の書状の中で述べているのは、非常に重要かつ注目すべき記述だと思われ、改めて強調しておきたい事です。

 

また、そのような傾向が続く限り、三条夫人にまつわる、当時の関連史料がことごとく無視され、勝頼母の諏訪御料人の存在ばかりが、強調される現状は、いつまでも続く事でしょう。

そうなると当然、武田信玄の正室としての三条夫人の評価の、大幅な見直しは、これからも行なわれないままだと思います。

またこれもすでに書いた通り、まず長年に渡り、数多くの歴史作家達が、三条夫人の事をろくに調査もせずに、築山殿のような悪妻と決めつけ、そのネガティブキャンペーンを長年に渡り、大々的に行い続けてくれたおかげもあり。

何十年経とうが、本格的に脚光も当たらず、軽視・冷遇されがちな武田信玄正室三条夫人を中心とした、当サイトの運営の困難さは、ある程度予想はしていたものの、予想以上の難しさに、心底疲れ果てています。

いつまで経っても報われない、無駄な労力を費やしているという思いが、強まってきています。

今後、このサイトをどうすればいいのか、かなり悩み始めています。