恵林寺の明王殿に安置されている武田不動と円光院の厨子に納められている勝軍地蔵・刀八毘沙門天像は、共に京の七条仏所の大仏師宮内卿法印康清の手になる物である。

武田不動は、天文二十年(1551)に、信玄が京から宮内卿法印康清を呼び寄せ、自らの体を模刻させ、等身大の不動明王像を作らせたという。

その時に信玄は剃髪し、その際に髪の毛を漆に混ぜ、自ら像の胸に塗りこめ、彩色を施したとされる。体の色が青い、青不動で彫刻全体は木色にあつく彩画をほどこし、随所に切金を用いるなど、工芸的な技量にすぐれ、金銭を惜しみなく注ぎ込んで作らせたようである。

肩衣は宝相唐草文に輪宝を円門の中に配し、膝の地文には七宝つなぎが描かれ、また膝全体に、武田の権威の象徴である、第三種の円竜文が、ところどころに配されている。 光背の火炎は、金地に朱の色を強調し、次に迦楼羅の頭部が図文化されている。

 

 

火炎の朱の色は、青不動の錆びた緑彩の体を浮き立たせて、効果的になっている。火焔光の光背に、右手に宝剣を持ち、左手には羂索を持った姿である。工芸水準が高く、頭部など細部にわたり切金を用いるなど、戦国時代の美術工芸の枠が凝集した作品となっている。

天正四年の四月、信玄を送る「天正玄公仏事法語」の中で、円光院の説三和尚は「自ら不動明王を造ったのは治国の宝剣をもって、国を治めるため」と見ている。また信玄の葬儀の大導師快川和尚の偈の中でも、この不動像は信玄と不離一体のものとしており、信玄の信仰の結晶であった。

このように、信玄の不動明王に対する崇敬はあつく、信仰した尊像は分国内にも数多く見られる。 恵林寺にも、この武田不動尊の他にも、武田信廉の手になる鎧不動尊の彫像および絵画がある。

そしてまたその他にも、甲斐国内の著名な不動明王に、信玄は信仰を寄せていた。中富町八日市場の三守皇山大聖寺の本尊不動明王にもあつい帰依を見せ、同寺に太刀一振、五条袈裟などを奉納している。

 

 

塩山市放光寺は、新羅三郎義光の孫清光の子安田義定が賀賢上人を開山として安田一族の菩提寺とした古刹である。

同寺には大日如来・不動明王・愛染明王の三対が安置しており、信玄の祈祷所の一つに数えられていた。 東山梨郡の牧丘町倉科の大滝山上求寺の不動明王にも、信玄は帰依した。

そして現在円光院の厨子の中に納められている、勝軍地蔵・刀八毘沙門天は、信玄が元亀四年(1573)に信濃の駒場で臨終の際に、三条夫人の菩提寺の円光院に納める事を遺言したと伝えられ、日頃信玄が陣中守り本尊として肌身離さず持っていたという。

上部と底部は黒に、内部は金色で塗られた厨子の中に、甲冑で身を固めその上に二十五条の袈裟を掛け、右手には錫杖を持ち、左手には如意宝珠をのせ、白馬に跨った輪焔光背の地蔵と三面六臂獅子に跨った、輪焔光背の毘沙門天の像が納められている。

材質はビャクダン製で、彩色と切金がふんだんにもちいられている。 勝軍地蔵は、軍神として鎌倉時代以後から、特に戦国武将達に深く尊崇されたという。 また信玄の他にも、上杉謙信・明智光秀・豊臣秀吉・徳川家康らの戦国武将達にも信仰されていた。刀八毘沙門天の起源の方は、明らかではないが、毘沙門天信仰から発生したものとされている。

信玄の他に刀八毘沙門天を信仰していた事で有名な戦国武将には、上杉謙信がいる。

恵林寺
恵林寺
山梨県甲州市塩山小屋敷恵林寺内武田不動尊
山梨県甲州市塩山小屋敷恵林寺内武田不動尊