武田一族一

三条夫人

三条夫人は、大永元年(1520年)に京の公家転法輪三条公頼の次女として生まれる。

転法輪三条家は、清華七家の一つに数えられる名門であり、太政大臣にまで昇進する事ができる。当時の三条邸は、梨木町にあった。

また、三条家の家紋は、梨の花であり、昔から三条家と梨木町が縁が深かった事がわかる。三条夫人の母の高顕院は、入道権大納言藤原尚顕の娘。 しかし、京の名門公家の三条家といえど、当時の数多くの公家達の例に洩れず、経済状態は苦しかったようである。

このため、公頼の祖父、実香や曽祖父の公敦は周防の大内家等、西国の諸大名を頼り、下向している。また、三条家の家風も質素だったようである。

そして三条家は、笛と装束の家であり、仏教とも深い関わりを持っていた。 その家名の「転法輪」という言葉も、仏の教えを説くという意味である。

また三条家の邸は、三条仏所の近くでもあった。

そして三条夫人も快川和尚ら、葬儀に参列した諸導師達の言葉によると、生涯を通じて、仏への信仰が篤かったという。

それは、このような実家の家風から来ていたのかもしれない。

 

 

天文五年(1536)の三月に、三条夫人の夫となる武田晴信が元服し、信濃守大膳大夫の官位と将軍足利義晴から偏きを賜り、「晴信」となっている。その際に三条公頼が京から勅使として甲斐国に下向している。

この事から推測すると、おそらく天文四年の冬頃には、晴信と三条夫人との縁談が持ち上がっていたと思われる。

なおこの縁談の斡旋をしたのは、今川義元もしくは寿桂尼と言われている。 かつて今川家では家督相続を巡り、今川氏親の正室寿桂尼の子で当時仏門に入っていた、栴岳承芳(後の義元)と同じく仏門に入っていた側室福島氏の子である玄広恵探との間に「花倉の乱」という戦いが勃発した。 そしてその際に承芳を支持したのが、晴信の父武田信虎であった。

この事が寿桂尼の心証を良くし、今回の縁談の斡旋に繋がったとされている。 まずこの縁談に関して、三条家の事情から考えてみたい。

三条夫人ら公頼の娘達は、実はいずれも管領細川晴元・武田晴信・本願寺 門主の顕如と、誰一人として公家には嫁いでいないのである。

これは、偶然とは考えずらく、三条公頼が時流を読むのに長けた人物だったと言う証拠ではないだろうか?公頼がこれからの武田家に、大いに期待していた様子が伺える。

 

 

一方、武田信虎側の方の思惑はどうだろう。

従来では、これから京都進出の前段階として、箔を付けるため、また京の姫を息子の妻にもらい受ける事で、京都とのコネクションを得ようとしたためだと解釈されてきた。しかし、私は更に信虎は実質的にも三条夫人が、そのようなパイプ役を果たしてくれる事も期待したのではないかと思われる。 天文五年の夏、三条夫人は京の都を旅立った。

 

 

京の都というと、まず華やかなイメージが湧いて来るかもしれないが、この頃の京は長年続いた応仁の乱ですっかり疲弊し、夜毎、夜盗・火付けなどが横行し、非常に不安定な世相であった。

このような中、京の名門公家に生まれた三条夫人は、はるか新天地の甲斐国目指して長い輿入れの旅に出発した。

『言継卿記』で有名な、山科言継の京から駿河下向のルートを参考にして、三条夫人の輿入れルートを推測してみると、最低でも伊勢・近江・駿河の三カ国は通過する、大変な長旅であった。

この途中、おそらくこの結婚の経緯から考えてみても、三条夫人達は途中駿府の今川館に立ち寄り、寿桂尼らに温かく迎えられ、しばし旅の疲れを癒した事だろう。 そして七月に、三条夫人の輿入れ行列は、甲斐国に到着した。

おそらくこの結婚の経緯から考えてみても、三条夫人達は途中駿府の今川館に立ち寄り、寿桂尼らに温かく迎えられ、しばし旅の疲れを癒した事だろう。 そして七月に、三条夫人の輿入れ行列は、甲斐国に到着した。 おそらく、疲れ果てた三条夫人一行を、武田館は盛大に出迎えた事と思われる。武田館に到着後、よく小説などで描かれるように、頭からここでの暮らしに侮蔑を示したとも思えないが、公家とは違う、慣れない武家の風習に戸惑う事が多かったと思われる。 武田信虎正室で晴信の母であり、武田館の女主人である、大井夫人から学ぶ事ばかりの日々であっただろう。やがて武田家での暮らしにも慣れてきたと思われる頃、三条夫人は、新たに深刻な問題に突き当たる事となる。

 

 それは、信虎と晴信親子の対立である。 信虎と晴信は以前から折り合いの悪い親子であり、晴信は父信虎に対し、批判的な言動をする事が多かった。鬼鹿毛の馬や正月の祝宴の席での盃の話など、両者の確執を現わす数々の逸話も伝えられている。

当然信虎の正室であり、晴信の母である大井夫人と晴信の正室である三条夫人も、この親子の相克を間近で眺めながら、心配していた事であろう。 特に三条夫人にとっては、この父子の不和は夫晴信の家督相続、ひいては息子太郎の家督相続をも、危うくしかねない問題であった。

しかし、天文十年の六月、晴信により信虎は駿河に追放された。

こうして晴信は武田家当主にして甲斐国国主、妻の三条夫人は国主の正室となったのであった。

 

彼ら若き国主夫妻は、新しい国造りの希望に燃えていたのではないだろうか。 三条夫人もこれまでの京と甲斐国を繋ぐ役割の他にも、新たに国主の正室としての役割が加わった事と思われる。

実際に晴信の正室が京の公卿の姫君であるという事で、天文十三年の三月には冷泉為和が、天文十三年の九月十七日と天文十五年の七月十六日には、三条西実澄・四辻季遠が。そして天文十六年閏七月二十七日には正親町三条公兄が、また天文二十一年には四辻季遠が甲府に下向している。おそらく、三条夫人は甲斐国国主晴信の正室として、これら京からやって来た客人達を迎え催された茶会の席で客達の応対をしていたのだろう。当時の茶会や連歌会などの催しは、単なる文化的交流だけを意味していた訳ではなかった。 これらの会は他国の情勢などの情報交換、または会合などの政治の場としても使われていたのである。

 

 

天文十九年の三月に、晴信は以前台風で大きな被害を受けた、勝沼町にある、武田家累代の祈願所である、大善寺の復興をするためである寄付勧進の協力のため、盛大な薬師供養祭りを催している。そしてこの公式行事にも、三条夫人は正室として武田家の一員として参加している。まず、主催者である晴信からは「太刀 一腰 馬一疋」が、大井夫人からは「百疋」が、三条夫人からは「百疋」が、晴信の弟達である信繁、信廉、信是からは、それぞれ太刀一腰が納められている。

この記録から、大井夫人や三条夫人ら武田家の正室達が、領地を与えられていた事がわかる。おそらくこの勧進の奉加帳にされている彼らの署名は、直筆のものだと考えられている。

このように、やはり三条夫人は正室としての役割をきちんと果たしていた事が伺われ、小説やドラマの中でのように、武田家の中で孤立している彼女が、侍女達を相手に日がな甲斐での暮らしに愚痴をこぼしていたというような憶測は、成り立ちずらくなる。

 

 

ちなみにこの薬師供養の祭りは、保性太夫と大蔵太夫の両座を招き、総勢五百人を引き連れた彼らが寺に集い、三日に渡る延年の舞いを行なった、それは盛大なものだったようである。

一方、三条夫人の私生活の方は、天文七年に長男太郎が、天文十年には次男信親が、天文十一年頃には、三男信之が。

更に天文十二年には長女黄梅院が、天文十三年には次女の見性院がと、次々と多くの子供に恵まれ、円満な夫婦生活が想像できる。

ただ、そんな生活に唯一影を落とす事があるとしたら、それは次男信親の盲目であろう。このため、彼は龍芳と名乗り、半僧半俗として家族達と離れ、叔父武田信廉の邸がある方角に邸を与えられ、そこに住む事となった。とはいえ、正室としての三条夫人の生活は全体的には順調なものであったと思われ、天文十九年には長男の太郎が元服。

 

 

またこの信玄と三条夫人の間に、五人の子供が生まれている点に関しては、上野晴朗氏も、三条夫人が女盛りの年齢で、多くの子供をもうけていることが、それだけで充分、信玄との夫婦関係が健全であった事の何よりの証だろうとしています。ですが、何より信玄の妻としては、いつも武田勝頼の母である諏訪御料人ばかりに、人々の注目が集まりがちです。

おそらく、彼女はその成人した息子が一人だけでも、その息子が家督を継いでいる事から、これも同様に成人した息子が一人だけであるが、ずっと豊臣秀吉の一番の愛妾であったとされてきており、そしてその息子が家督を継いでいる以外にも、更に他にも秀吉に寵愛されていた数々の史料などの痕跡が残っている、淀殿と同一視されがちなのだろうと思われるため。だが諏訪御料人の場合は、こうした淀殿とは違い、元々「甲陽軍鑑」の、その美女記述と結果的にその息子の勝頼が家督を継いだ事くらいを、その信玄の強い寵愛の根拠としているのにも関わらず。

そしてこれまであまりにも、このようにこの諏訪御料人が、たぶん淀殿と同一視される傾向が強過ぎたあまり、三条夫人がこのように信玄の五人もの子供を生んでいるという点も、ほとんど無視される傾向も強いですが。

 また、更に言えば、成人した息子をその妻達の中でただ一人だけ生んでおり、確かに明らかにこの点においては、秀吉の妻達の中で圧倒的優位的立場であったと思われる淀殿の場合とは違い、信玄の妻の中にはこのように正室の三条夫人、そして更に他の側室の油川夫人も、多くの子供を生んでいるという気になる点があるのにも関わらず。

しかし、これまでまさに淀殿のように、並み居る側室達の中でも、信玄からのその絶対的な強い寵愛を受けていた側室だったとばかり見られてきた諏訪御料人。やはり、例の「甲陽軍鑑」における、山本勘助と共に登場する場面での彼女に関する記述と最終的に彼女の息子の勝頼が武田家を継いでいる点にばかり、注目し過ぎる傾向が、これまであまりにも強過ぎたのではないだのでしょうか?

 

またおそらく、信玄と諏訪御料人が秀吉と淀殿と重ねられて捉えられる傾向に対し、逆にこちらの信玄と三条夫人夫婦については、徳川家康と築山殿夫婦に重ねられやすい事から、どうせ夫の信玄とは単なる形式的な関係に過ぎない、冷え切った不仲夫婦、という先入観を強固に持たれ続けてきたため、これもどうせ義務的に夫婦関係を果たした結果の、この五人の子供だろうとしか見られないのでしょうが。

やはり、武田信玄と三条夫人、そして武田信玄と諏訪御料人というと、本当に多くの人々がこのようにすぐ、既存の他の有名な戦国夫婦に当てはめ、何かと類型化した上でしか考えようとしない傾向が目立つ事にも、私はかなりの問題を感じます。

一度、そういうものから離れ、特にこの武田信玄と三条夫人を単独で、改めて考え直してみようという意識が、これまで全然どの人々からも、感じられないままだったんですよね。

しかし、私はこの夫婦は、以前からそのいろいろな点から、こうした大雑把な感じに類型化して捉えようとばかりするのは、問題があるのではないか?と感じ続けてきたのですが。

しかし、私のような人間は、所詮は少数派になってしまうらしく、だからこそ、ここまで三条夫人の不遇な扱いが続いてしまった訳ですが。

そしてやはり、彼らがこうしていつまでも大雑把に類型化してしか捉えられないのも、それもこれも、現在に至るまで武田家の女性についての個別の研究が事実上全然存在していない事の、弊害でもあるのだとは思いますが。

 

天文二十一年には、太郎は今川義元の娘嶺松院と結婚。

そして天文二十二年の七月には、将軍足利義輝の偏きを受け、「義信」と名を改める。

 

更に天文二十三年の十二月には、長女黄梅院が相模に輿入れ、と慶事が続く。だがしかし、この前後に三条夫人に突然の不幸が訪れる。

周防に下向していた父三条公頼が、大内義隆家臣で謀反を起こした陶晴賢軍に、殺害されてしまうのである。 三条公頼には息子がおらず、実質的な三条家断絶であった。 父を失い、また実家を失ったも同然の三条夫人にとっては、大変な衝撃と悲痛な出来事だったと思われる。

しばらくは、父を失った悲しみに沈む日々だったのではないだろうか?

とはいえ、嫡男の義信は今川義元の娘と結婚後も、天文二十三年には初陣で信濃国伊那郡で知久氏を討って手柄を立てるなど、見事な働きを示し、その前年の弘治二年には、三管領に準じられるなど、信玄の後継者として、まずは順風満帆な人生を歩んでいた。

 

管領といえば、当時の管領細川晴元の正室は、三条夫人の姉であった。 私は三条夫人とこの細川晴元夫人との間には、姉妹としてのやり取りの他にも、政治的な交渉が行われていたのではないかと考えている。

それから前述した通り、三条夫人にはこの姉の他に 、本願寺に嫁いだ妹の如春尼がいた。彼女の夫は顕如である。

そして周知の通り、顕如は信玄と連携して、織田信長に対抗している。

更に私はこの背後にも三条夫人・如春尼姉妹の連携も加わっていたのではないか?と考察している。 上記の、義信が三管領に準じられている事と合わせて考えてみても、やはり彼女が名門公家の娘として、中央に対する影響力を有していたためだろう。

そして、それを信玄も大いに活用させてもらった事だろう。

武田信玄の時代は、最も武田家が隆盛した時である。

いかに信玄が傑出した人物であっても、彼一人だけで甲府五山などの文化事業などを実現させ、あれ程の武田家の繁栄を築く事は難しかったのではないだろうか?やはり、正室の三条夫人の協力が、不可欠であったと考えられる。このように、名実共に信玄の正室としての役割を果たし、正室として順調に生活していたと思われる三条夫人だが、凄まじい悲劇の連鎖に襲われていく事となる。

 

 

それは、夫の信玄と長男の義信との対立から始まった。

既に述べてきたように、義信は名門甲斐武田家の嫡男として、順調なコースを歩んでいた。弘治三年には、甲斐国主の執行文書に信玄は義信を自分と連名で登場させて、内外に義信が自分の後継者である事を示している。 いわゆる副将軍としての地位を与えているのである。

弘治三年の十二月二十八日付けの二通の親子連名の文書が、それぞれ春日居常性寺と中牧宝珠寺に残されている。

とりあえず、この時点までは父子の関係には何の問題もないと考えられる。 義信の謀反のきっかけになったとされる、最初の信玄との対立の理由はよくわからないが、永禄四年の川中島の合戦からだという説がある。

しかし、やはり一番有力な説は信玄の駿河侵攻を巡っての意見の対立である。義信の謀反発覚前から既に父子の対立の様子は、三条夫人の目にも明らかとなっていたであろうから、両者の間に挟まれて辛い立場であっただろう。小説などでは、よく三条夫人が息子の謀反をそそのかしたという事にされているが、私には信じ難く思われる。

かつて三条夫人も、信虎と信玄親子の確執を間近で目にし、これに胸を痛めていた立場である。こういった戦国大名家においての、父子のこのような対立が由々しき事態に発展しかねない可能性があるという事は、三条夫人とて既に武将の正室として理解済みであったと思われる。

もしくは彼女が信玄の駿河侵攻に強硬な反対をした結果、それが義信の謀反に繋がったという見方には、懐疑的である。

 この件に関しては、三条夫人は中立的な立場を取っていたのではないだろうか? それは確かに寿桂尼や今川氏とは深い繋がりがあり、信玄の駿河侵攻には賛成し難い思いもあったかもしれないが。

やはり板ばさみのような、苦しい心情だったのではないだろうか?

 

 

永禄七年、七月十五日、ついに義信の謀反が発覚する。

義信以外の首謀者の、飯富兵部虎昌と長坂源五郎が誅された。 

義信は東光寺に幽閉された。

この前後の三条夫人の動向は定かではないが、義信幽閉時の永禄九年十一月二十五日に、美和神社に奉納された義信の赤皮具足がある。

奉納したのは「御前様」つまり、義信の母三条夫人である。

美和神社の神の力によって、奇跡的な信玄の恩赦を祈っていたのだろう。 だが、そんな母三条夫人の願いも虚しく、永禄十年十月十九日、三年程の幽閉生活の後、義信は自害した。

三条夫人にとっては、悲痛と苦悩、そして世の中が闇に覆われてしまったかのような気持ちであっただろう。信親、信之と、三条夫人の息子達には不幸が続き、その中で唯一義信だけは無事に、そして見事に武田家の嫡男として成長し、そしてゆくゆくは次代の武田当主となるはずだった。

三条夫人にとって、長男義信は希望のような存在であっただろう。

しかし、義信は長い幽閉生活の果てに自害し、側室諏訪御料人の息子である勝頼が跡を継ぐ事が決定的となった。

自分の息子に武田家を継がせる事ができなかった、三条夫人の無念は、相当なものであっただろう。

この後、おそらく三条夫人は成就院の説三和尚に帰依し、謀反を起こした息子の母として責任を感じ、そして息子義信の菩提を弔うため、出家を考えていたのではないだろか?

しかし、信玄に制止され、また盲目であった次男信親などの事もあり、出家を思いとどまったのではないだろうか?

だが三条夫人の不幸はこれだけにとどまらなかったのである。

永禄十一年の十二月、信玄の駿河侵攻に激怒した北条氏康により、小田原で夫と幸せな結婚生活を送っていた長女黄梅院は、無理やり離縁させられてしまう。そして甲府に、送り返されてしまったのである。

傷ついた娘の黄梅院を、母の三条夫人は温かく迎えた事だろう。

しかし、愛する夫の氏政と幼い子供達と引き離された黄梅院の悲しみは深く、安之玄穏を導師に、出家してしまった。

そしてそれからわずか半年後の永禄十二年の六月十七日、二十七歳でこの世を去ってしまった。

 息子に続き、娘まで失った三条夫人の悲しみは大きかった事だろう。

翌年の元亀元年の春には、おそらく子供達を失った悲しみから、病の床に伏してしまったらしい。

この年の四月二十日に、正親町三条公兄が夫人の病気見舞いのため、甲府に下向している。

だがおそらく生きる張りを失ってしまったと思われる、三条夫人の病状は回復しなかった。そして娘黄梅院の死から、ほぼ一年後の元亀元年七月二十八日、三条夫人は死去した。

享年50歳。

生前から三条夫人が帰依していた、説三和尚の成就院に三条夫人の遺体を移し、快川和尚を大導師に迎え、武田一族・重臣達が集う中、盛大に葬儀が執り行われた。

この中で各導師達は、葬儀の中で生前の三条夫人の人柄と業績について述べている。

鎖龕は、説三恵燦が、掛真は大円智円が、起龕は、桂岩徳芳が、奠茶は、鉄嘴道角が、奠湯は、藍田恵青が、下火は快川紹喜が、取骨は高山玄寿が、安骨は、末宗瑞曷が、行なった。

なお、この導師達の内、説三、大円、桂岩、藍田、快川、高山、末宗は、義信の葬儀に、説三・大円・快川・高山は、信玄の葬儀にも、出席している。 法号は「円光院殿梅岑宗は大禅定尼」が贈られた。

 

 

円光とは、仏の背後に輝く後光の事であり、生涯信仰心が篤かったという三条夫人に相応しい法号だと思われる。

甲府の成就院は三条夫人の法号を採り、円光院と名を改めた。

信玄はこの年の十二月朔日に、円光院のために、茶湯料として、林部の内ならびに石和の屋敷分、合わせて十八貫を寄付している。

更に三条夫人の三回忌の直前の六月十九日には、円光院住職の説三和尚のために、朝廷に紫衣を奏請し、これを聞き届けられている。

そして説三和尚は、六月二十三日、右中将庭田重通を使者に、正親町天皇から紫衣聴許に当たり、特別に本山妙心寺の住持職に任じるという綸旨を与えられている。

こうして説三和尚は三条夫人の三回忌である、元亀三年七月二十八日に、紫衣を着用して法要を営んだ。

この紫衣と妙心寺住持住職の資格取得のために、信玄は合計九十七貫五百文という大金を寄付している。

そしてこの翌年の元亀四年の四月十二日、信玄は信州の駒場で臨終の折に、密かに馬場美濃守信房を呼び寄せ、自分が日頃陣中守り本尊として肌身離さず持参していた刀八毘沙門・勝軍地蔵の二体を円光院に納め、(彫ったのは、宮内卿法印康清で、恵林寺の武田不動も彼の作である)。また自分の遺体も、円光院に埋葬して欲しいと遺言している。

そしてその間に、密かに荼毘に附され、埋葬されたのが円光院に近い土屋右衛門の邸だった。

そしてこの場所からは、永禄八年に、代官中井清太夫により信玄の石棺が発掘され、現在の武田信玄古墓の「法性院大僧正機山信玄之墓」の墓石が建立された。現在円光院には、この二体の仏像が納められている。

 

 

大井夫人

明応六年(1497年)誕生。

甲斐国西郡豪族の大井信達の娘で、武田信虎の正室。

武田信玄・信繁・信廉・定恵院の母。

大井氏は、室町時代初期に武田家宗家の武田信武から分かれた名族であり、武田大井殿と尊称され、信虎の時代には有力国人層として覇をとなえていた。

信虎の子供の内、信玄・信繁・信廉、定恵院は、大井夫人所生である。永正六年頃に信虎と結婚。

しかし、大井夫人の信虎の正室としての生活の始まりは波乱含みであった。

大永元年に、長男の太郎を産んだのは、武田軍と福島氏の率いる駿河軍との戦いが集結した一ヵ月後の、要害城(現在の積翠寺)であった。

 とはいえ、夫の信虎は有能な武将であり、彼の代に甲斐の統一は成し遂げられている。だが、隣国との対外関係は常に緊張しており、信虎は駿河の今川氏親、相模の北条氏綱との連合軍とも戦っている。

 

 

信虎にはお西様、他何人かの側室がいたが、大井夫人は名実共に第一の妻として、家中で重きをなしており、信玄や信繁ら息子達にも敬慕されていたようである。

そしておそらく、寿桂尼が、夫の今川氏親母の北川殿から武将の正室としての様々な振る舞い・心得を教わったように、三条夫人も、彼女から武将正室としての様々な事を教わったのだろう。

また、天文十七年の二月十四日、上田原の戦いで、武田軍が大敗を喫し、当時上原城に常駐していた駒井高白斎らが信玄の退却を求めたが、なかなか応じようとしないため、 十九日に今井信浦と高白斎が話し合った結果、大井夫人に信玄の説得を依頼した。

「高白斎記」によると、母の大井夫人から上田原の合戦場に使者を派遣してもらい、信玄はやっと退却したという。

 

 

信玄も、母の大井夫人からの言葉は、素直に受け入れたようである。

前国主信虎の正室であり、また現当主信玄の生母である大井夫人の、息子信玄に対する大きな影響力が覗われる。信玄の様々な教養も、夫人からの影響が大きいようである。夫人は、父も歌人であっただけあり、次の一首を詠んでいる。「春は花、秋は紅葉のいろいろも、日かずつもりて散らばそのまま」

夫人も、何かと影日向に、日頃から父信虎との確執に悩む息子晴信を支えてやっていたのだろう。

また、並々ならぬ息子の器量にも、大いに期待を抱いていたと思われる。

息子により、信虎が駿河に追放された後も、 大井夫人は引き続き、武田館に留まり、出家した後、北の隠居曲輪に移り、これ以降「お北様」と呼ばれるようになる。夫人のこの行動は、息子晴信による、

夫信虎の駿河追放に関して、黙認していたという事なのだろう。引き続き、彼女の存在は家中で重んじられていた事が 予想される。

大井夫人は天文二十一年五月七日に、二年前に孫義信の元服を見届けた後、五十五歳で死去した。

平穏な晩年であったと思われる。

 

先代当主の正室として、そして現当主の信玄の生母として盛大に大井夫人の葬儀が執り行われたと思われる。

法号は「瑞雲院殿心月珠泉大姉」。

追慕像の肖像画は、息子で武人画家として名高く、父信虎の追慕像も描いている、武田信廉によって描かれ、絵には夫人の詠んだ和歌と、大泉寺の玄之安穏の画賛が書かれた

なお、夫人の遺品として生前に御岳金桜神社に奉納された「住吉蒔絵手箱」があり、当時の女性達の華やかな暮らしが偲ばれる。

長禅寺
長禅寺
三重の塔と五重の塔(昭和五十三年建造と平成元年建造)
三重の塔と五重の塔(昭和五十三年建造と平成元年建造)
大井夫人墓所
大井夫人墓所
御岳金桜神社
御岳金桜神社

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武田義信

武田信玄と三条夫人の長男。

武田義信は天文七年、信玄の長男として生まれた。

この嫡男太郎が誕生した時、武田館は喜びに沸いた事であろう。 武田家の血と京の名門公家である清華七家の一つ、三条家の血を引いた嫡男が誕生したのである。しかし、長男太郎の前途に不安があるとしたら、それは父晴信と祖父信虎の確執であった。

彼ら親子はことごとく衝突し、初陣の時に晴信がねだった鬼鹿毛の馬を与えない、天文十年の正月には、重臣達も居並ぶ祝いの席で、晴信にわざと盃を与えず、次男の信繁に与え、晴信に向かって、しばらく駿河の今川義元の許で礼儀作法でも学んでくるようにと言い放つなどの、信虎の晴信に対する仕打ちがあった。 父信虎は温厚な信繁の方を可愛がるような素振りを見せていたから、晴信は内心穏やかではなかったであろう。

またこのような深刻な親子の対立は、大井夫人や三条夫人などの武田家の女性達にとっても、頭の痛い問題であっただろう。

特に三条夫人にとっては、事は深刻である。

せっかく嫡男の太郎をもうけたのに、肝心の夫の武田家相続自体が怪しい雲行きになってきたのである。

 

しかし、結局この親子対立は天文十年の六月、息子晴信による、父信虎の駿河追放という形で幕を閉じた。天文十年の六月二十八日、正式に晴信は武田家の家督相続の儀式を執り行った。

御酌は温井丹波守が務めた。

こうして、晴れて太郎は甲斐国国主武田晴信の嫡男となる事ができたのである。 おそらく、太郎には将来武田家を継ぐ嫡男として、一流の師が付けられたのであろう。そしてまた太郎も、両親の期待に応え、信玄の後継者として、立派に成長していったようである。

天文十九年、十二月七日、太郎は元服した。

八月二十三日、太郎は元服を期に西に独立した家屋を建ててもらったようである。 武田家の嫡男として、義信がどのような内容の教育を受けていたのかとか、彼の具体的な教養がわかるようなものは、残念ながら残っていません。 でも、こういう部分こそが、気になる事であったりします。

やはり、父のように、四書五経とか帝王学のような事は、学んでいたのでしょうが。 しかし、当然父の信玄のように、彼に学問を教えた、各師僧達がいたはずです。 彼ら教育係の人物が、どのように選ばれたのか、少し考えてみました。 もちろん父の信玄が最も積極的に、息子義信の師僧の選出・採用に、乗り出したのでしょうが、もしかしたら三条夫人の京都でのつてを頼って、あちらから、高名な僧侶が、広く探し求められたのかもしれません。おそらく義信の三管領就任の祝いの品として、京都の成就院から送られてきた物と推定される、観音像や肩衣袴や杉原紙など、京都との繋がりを感じさせるものも、いくつか残っていますし。)

 

 

更に天文二十一年の一月八日には、具足始めの儀式を執り行っている。 この年の四月八日に、三国同盟の一環として、今川義元の娘嶺松院が太郎に嫁ぐ事になり、この時両家の間に入輿の誓詞が取り交わされている。今川家には既に信玄の姉定恵院が義元の正室として嫁ぎ、氏真や嶺松院を産んでいたが、天文十九年に彼女は死去してしまった。

このため、太郎と嶺松院を結婚させ、武田家と今川家の同盟を強化し、更に北条家との同盟も加えた、甲駿相の三国同盟に発展させるための、前段階としての結婚だった。 天文二十一年十一月二十七日、嶺松院は甲府に輿入れした。いとこ同士の結婚であった。

天文二十二年の七月二十三日には、十六歳になった太郎は、将軍足利義輝から偏きを受け、「武田義信」と名を改めた。

この時の使者は、今出川公彦だった。

彼は武田信虎の娘お菊御料人を妻に迎えた、今出川晴季の父である。

また、十二月十九日には、武田館で一族・重臣達の居並ぶ中、義信の盛大な名乗り開きの儀式が行われている。

信玄も、三条夫人もよくここまで無事に成長してくれたと、感無量であった事だろう。

特に、次男の盲目、三男の夭折と、息子達に悲しい事が続いた母の三条夫人にとっては、この長男の義信の立派な成長振りは、一際喜ばしいものだったろう。天文二十三年の八月の初陣には、 義信は見事に信濃国佐久郡の反乱を鎮圧すると、次は小諸城も降伏させ、内山城の軍勢を率いて落武者三百人を討ち取っている。

なお、この出陣前には武田家の家宝の御旗・盾無の置かれている御旗屋で、信玄を中心に原美濃、小幡山城、山本勘助、飯富虎昌が取り囲み、飯富が初陣の義信に具足を召させた。

それが済むと信玄は自ら神酒の酌を持って、まず息子の義信に与えた。そしてそれから他の四人に酌をして回った。

弘治二年には義信は、三管領に準じられた。

弘治三年の十二月には、春日居の常性寺と中牧の宝珠寺に、それぞれ親子連名で署名している。こうして信玄は、義信が自分の後継者である事を内外に示している。

義信というと、小説などでは甘ったれたお坊ちゃんのような感じで描かれる事が多いが、彼の実際の人柄がわかるような史料は残っていない。

また、父の信玄と対立し謀反を起こす前は、信玄の後継者という立場にありながら、山梨県内に残っている彼の書状は一通のみである。

 

 

やはり、これらは彼が謀反を起こしている事と、関係しているのではないか?と思われる。その書状は常楽院所蔵の書状である。

常楽院は京都聖護院末の院家だった、勝泉寺の末寺である。  

聖護院は天台宗寺門派門跡寺院で、全国の修験道の総本山、統括的立場であった。この義信の書状も、修験道に関する内容である。

数少ない義信書状の、もう一通は京都の成就院所蔵のものである。

この書状の方は、京都の成就院が義信のために、観音像・扇・杉原紙・肩衣袴を贈ってきた事に対しての謝礼の手紙である。

弘治二年に義信が三管領に準じられた時の、祝いの品なのではないかと考えられる。 義信はこのように三管領に準じられるなど、順調に官位も授かり、信玄の後継者として順調な歩みを続けていたと考えていいだろう。

 

 

『越後野志』下巻によると、永禄四年九月の川中島の戦いでも、義信は敵の大将上杉謙信を追いつめるなど、見事な働きを見せている。

義信の謀反のきっかけになったとされる、最初の信玄と義信の対立のきっかけはよくわからない。「甲陽軍鑑」によると、永禄四年の川中島の合戦の時に、乱戦の後、信玄は千曲川を渡り、味方の陣に引っ込んで陣備えを立て直した。ところがそれを見た義信が、勝ち潮に乗っている時に陣備えを引いたのは見苦しいと、激怒して抗議したというのが発端だという。

またこれに続いて、翌年の永禄五年の六月に、信玄が勝勝頼を諏訪氏の跡目として、信州伊那郡の高遠の陣代に据えたのを恨んでという説もある。 つまり、信州の伊那は義信にとっては天文二十三年の初陣の地に当たる地方であり、彼にとってこのように思い入れの深い地域を、勝頼に与えられたので、おそらくそれが不服だったのだろうというのである。

しかし、しかし、この川中島合戦以降も、引き続き、父子で合戦に参加しており、これらの根拠だけを理由に判断する事はできない。 ただ義信の勝頼の高遠城主就任に対する、やっかみ的な理由に帰そうとするのは、おそらく、これも「甲陽軍鑑」に書かれている信虎の信繁への偏愛と、武田信玄父子の不和を対比させようとしただけで、特に注目するような点とは思えない。

 

 

また、父子不和の事の発端が、このような義信の勝頼に対する感情的なやっかみであるとする、どこまでこの「甲陽軍鑑」の見立てが妥当であるのかもわからない。 更にまた、後には父子の駿河を巡っての議論にまで発展していく事態の原因を、矮小化させて捉えようとしている可能性も否定できない。また繰り返すが義信は、小説などでは、甘ったれたお坊ちゃんのように描かれる事が多いが、彼の実際の人柄がわかるような史料は残っていない。更に実際にも義信は、父信玄と対立するようになるまでは、信玄の後継者という立場にありながら、山梨県内に残っている彼の書状は一通のみである。 やはり、こうした書状等の彼にまつわる史料の少なさは、彼が謀反を起こしている事と関係していると思われる。

その唯一県内に残されている義信書状は、常楽院所蔵のものである。常楽院は京都聖護院末の院家だった、勝泉寺の末寺である。

聖護院は天台宗寺門派門跡寺院で、全国の修験道の総本山、統括的立場であった。この義信の書状も、修験道に関する内容である。

彼らの対立原因に関する最も有力な説は、信玄の駿河侵攻を巡っての、父子の意見の対立である。義信の正室が今川義元の娘である事から義信が駿河侵攻に反対したらしいという説もあるが、義信とて離合集散が日常茶飯事であった戦国武将の一人である。本当に、単にそのような、情緒的な理由からだけなのであろうか?

義信は他の駿河侵攻反対派の家臣と同じく、信玄の対駿河戦略に疑問を抱いていたのではないだろうか?

 

 

義信の謀反に加わった者達としては、いずれも武田家の重臣クラスの面子が、相当数名を連ねているのが、注目される。

しかし、義信のこの駿河侵攻に反対して謀反に走った流れを、母三条夫人が息子をそそのかした事が原因だという事に、よく小説などではされている。だが三条夫人の中でも、かつて信玄とその父信虎との確執・家督を巡る一時の不穏な状況、そしてこの父子の対立が、最終的に息子の信玄による、父の信虎駿河追放という形で幕を閉じた事も、鮮明に記憶に残っているはずである。 三条夫人も、当然おそらく大井夫人と共に、その渦中で信玄と信虎の確執に胸を痛めていたはずの立場である。

息子義信どころか、夫の信玄ですら、家督を継ぐ事ができるのか、怪しい雲行きになっていたのである。戦国大名の家において、当主である父と息子の対立が、時に由々しき問題に発展しかねないものである事は、当時武将の正室として理解済みであっただろう。

ましてや、駿河侵攻作戦に関しては、武田家家中でも、意見が二分していた大きな問題であったものと考えられる。

とても正室の三条夫人の一存だけで、どうにかできるものでもなかっただろう。それは三条夫人も今川氏とは寿桂尼との関わりなど、繋がりが深く、あまり駿河侵攻には賛成し難い思いもあったかもしれない。

 

しかし、表立って彼女が強硬に反対し、ましてや義信に父信玄への謀反を働きかける事など、あり得るのであろうか?

当時の三条夫人は、駿河侵攻に対しては、中立的な立場を表明していたのではないだろうか?

おそらく、この時の彼女の心境としては、板挟みのような、苦しい心情だったのではと推測される。 それに、当時の義信はすでに子もいる、二十八歳の立派な成人男性である。

果たして、母親の意向が当時のこの年齢の息子に、このような問題に関してそれ程大きな影響力を持つものだろうか?

むしろ、彼の立場なら周囲の家臣達の影響力の方が、強かったのではないだろうか? ともかく、『甲陽軍鑑』によると義信は、永禄五年八月二十日に信玄が使者を立てて義信に意向を伝え、両者の関係が悪化したという。 このため、永禄六年の二月に竜雲寺の北高全祝和尚と大泉寺の高天和尚が両者の間に入り、仲裁を試みたが親子の関係修復には至らなかった。このような状況の中『甲陽軍鑑』は、以下のように伝えている。

義信は、永禄七年七月十五日の夜に、灯籠見物と称して長坂虎房の息子の長坂源五郎と曾根周防と共に飯富虎昌の邸に向かい、そして、夜中に、いかにも秘密がありそうな様子で帰還した。

これを御目付けの坂本豊兵衛と横目の荻原豊前守が目撃し、義信達はそこで謀反の計画を練ったという。

そして、謀反を知ったこの二人は、十六日に信玄に注進した。

更に飯富虎昌の弟飯富昌景は、信玄に義信の謀反の証拠となる義信自筆の書状を見せた。 信玄は後に家臣達に血判状を書かせている。

なお、この期間の、一連の三条夫人の対応についてはわからないが、信玄と義信の間に立たされ、両者の対立を深刻な気持ちで日夜案じていたのであろう。彼女にとっても、苦悩の日々であったと思われる。

 

 

そして義信が幽閉されていたと思われるこの時期、三条夫人は二宮美和神社に義信の赤皮具足を奉納し、何やら祈願をしている。

おそらく、何とか神の力でもって、奇跡的な信玄の慈悲による、義信の恩赦を祈っていたのであろう。永禄八年十月二十三日に信玄が小幡源五郎に宛てた書状によると「飯富虎兵部小輔虎昌が信玄と義信の間を仲たがいさせようとし、成敗した。本来、父子の間には何の問題もない」という内容である。つまり、自分達父子の間を義信の傅役の飯富虎昌が妨げようとしたため、成敗したと言っているのである。

この飯富虎昌の娘も、これも謀反に加担している重臣の曾根周防に嫁いだ後、義信の乳母になっていた。

現在でも、何かと不明な事が多い、この義信事件であるが、上野晴朗氏は、これには特に家臣団の抗争も、大きく絡んでいた事を指摘している。

やはり従来言われてきたよりも、もっとずっと根の深い事件であるとし、永禄四年九月の川中島合戦の前に起きている、北信地方の仁科、高坂、海野などの諸豪族の起こした謀反事件などの絡み合いも考慮する必要性を指摘している。 そして更に永禄二年から七年頃は、信玄の信濃計略が一応完了した時点であり、永禄八年から九年は西上野平定、そしてその後は駿河方面に矛先を向けた時期であるから、その結果として、甲斐・信濃・西上野の統治を巡りその過程で諸矛盾が一気に噴出してきた事が想像されるとしている。

 

 

更に続いて、それらの矛盾の具体的な例として、それまでの戦争過程の恩賞、あるいは処遇問題を巡り、この点で冷遇された人々の不満が、特に信州先方衆に多く、それに次いで、甲斐国本国の譜代の重臣達の間で燻っていたという。 更に永禄二年から七年頃は、信玄の信濃計略が一応完了した時点であり、永禄八年から九年は西上野平定、そしてその後は駿河方面に矛先を向けた時期であるから、その結果として、甲斐・信濃・西上野の統治を巡りその過程で諸矛盾が一気に噴出してきた事が想像されるとしている。またそれらの矛盾の具体的な例として、それまでの戦争過程の恩賞、あるいは処遇問題を巡り、この点で冷遇された人々の不満が、特に信州先方衆に多く、それに次いで、甲斐国本国の譜代の重臣達の間で燻っていたという。 特に彼ら後者の場合、信玄が実戦に当たり、武力に優れた者達を最優遇し、特に浪人衆の優れた者達を、どんどん士大将に抜擢し、側近として帷幕に加えた事などが、彼ら内務臣僚としての古くからの譜代の重臣達の不満となって、爆発したのではないかと見ている。

 

これらの、武田家内の矛盾も加わり、それが最終的にあの大規模な義信の謀反事件となって現われたのではないかというのである。

またこうした家臣団の抗争については、笹本正治氏なども、これは上野晴朗氏もその著書の中で名を挙げているように、義信には永禄八年六月吉日付の「甲州二宮造立帳」には、松尾信是、下条信俊、信盛、信康、友光、家長、信秀などの武田一族や加津野昌世、跡部昌忠、長坂勝繁、曾根虎盛、鮎川勝繁、漆戸虎光、市川昌房、跡部昌秀、楠浦虎常、跡部昌長らの、古くからの重臣達が従っていた事を指摘。

続いて事件の首謀者とされている、飯富虎昌は三百騎の家臣を持つ大身の譜代家老衆であり、やはり、信虎・信玄の武田家二代に渡り代表的な宿老として武田家の主導的な立場にあり、信玄の家督相続に際しても、板垣信方と共に中心的で重要な役割を果たしている事に注目している。

 

そして引き続き、義信と信玄にそれぞれ従っていた家臣達の特徴の違いについて分析し、注目している義信の場合には、信昌や信虎時代からの古くからの家臣が多く、これに対して信玄の方は信玄個人との関係で従う者達が多数いるような印象だとしている。 要するに、義信の許に集まった家臣達は古くからの武田家重臣達が目立ち、また彼らはかつて先代当主の信虎を追い出した経験も持ち、自分達にとって不都合ならいつでも主君を変えさせる事ができると考えていた形跡がある。

彼らからすれば、信虎を追放して軍役の負担を軽減させ、こうして武田家からの干渉を弱め、武田家の権力を弱めて自分達の力を増大させようとし、信玄を当主にさせたにも関わらず、彼らの意図とは逆に、信玄の時代になってから軍役の負担は増大し、自分達の力は相対的に弱まり、武田家の力が突出してきた。

そのため、旧来の流れを引く飯富虎昌が中心になり、かつて信虎を追放したのと同様に、新たに義信を交代させるために、彼を擁立しようとしたのではないかとしている。

このように義信の謀反事件は、武田家内の、様々な矛盾や思惑が幾重にも重なり合った末に、起きた事件のように思われる。

それに信玄は永禄十年の八月に、甲斐・信濃・上野三ヶ国の武士達約二百四十名から、結束のための起請文を書かせ、長野県の生島神社へ納めさせている。納められている分は、八十三通である。

 

その内容は信玄公に対したてまつり、絶対に逆心謀反を企てない事、敵方に内通しない事、異心を抱かぬ事、忠節を尽くす事などが箇条書きとなり、当時の切迫した状況及び、いかに義信事件の規模が大きく、武田家家臣達の動揺が大きかったかをも伝えている。

これは上野晴朗氏が指摘しているが。

義信に仕える者達の人選の特徴として、かつては信虎に逆らい、御岳に立て篭もった事すらある、なかなか血の気が多く、やや慎重さに欠ける面がないでもないと思われる、飯富虎昌が義信の傅役として選ばれ、また前述の義信の乳母も、飯富虎昌の娘で前述の曾根周防の許に嫁ぎ、こうして父娘共々、義信の養育を務めている。

またその他の義信衆に抜擢された人々も、全て甲斐源氏の一族、あるいは旧族の名家意識の強い一団で、信虎時代までは地方の代官、奉行などに任命されており、その中から飯富氏や曾根氏の他、長坂釣閑斎の子の長坂源五郎や曾根昌世などが抜擢されている。

その他、造立帳にも一斉に名前が見える、加津野、跡部、鮎川、漆戸、市川、楠浦氏などの名前も見え、やはりいずれも甲斐の名族意識の強い一団ばかりであると注目している。 信虎の駿河追放を成功させるに当たり、今井、栗原、板垣、甘利、長坂らと並び、やはり譜代の有力国人の家からであり、主要な協力者の一人だった事から、彼らに対する配慮と論功行賞の意図が、強く感じられる人選だとしている。

 

 

また上記のように、笹本正治氏なども、やはりこうした、武田家内部での家

臣団の抗争も、関連していたとしている。

またこの他には、既に何度も指摘されている、駿河侵攻などの今川氏を巡っての、政策対立であろう。そして義信自身の主張など、複合的な理由によるものであろう。

なお、この謎の多い義信事件に関しては、近年「武田信玄と快川和尚 横山住雄 戎光祥出版」の中で紹介されている、新史料の発見により、新たな事実が浮かび上がってきた。

この新史料の、岐阜県の南泉寺の「快川国師法語」によると、永禄九年のものと思われる、次のような快川和尚の書状が見られる。

以下抜粋。 「そして甲斐国の信玄父子和親のことは、長禅寺(春国)・東光寺(藍田)・快川の三名が春の初めから夏の末(六月)までに行った裁定にも結論が出ず、その他放逐の家臣らの帰国赦免も叶えられていない。

ましてそれより細かい事は、貴殿の推察にお任せします。

なお、春国から伝達させるのでよろしく。恐惶敬白。

六月廿二日  紹喜在判進上臨済寺侍衣閣下尊答」この春国光新は、長禅寺の住職であり、藍田恵青は、当時東光寺の住職を努めていた。

この文面から察すると、この三人が信玄と義信の父子対立発生時から、両者の和解に向けて尽力していたのがわかる。

しかし、春から夏の末までこのように奔走しても、自分達の策が進展せず、信玄によって放逐された家臣達も赦免には至っていない。

このような憂慮すべき状況を、快川和尚は、臨済寺に赴く春国に書状をあつらえると共に、詳しく伝えてもらったようである。

 

 

続いて、前掲の臨済寺宛て書状の他に、同じ六月二十二日付の長禅寺(春国)宛ての快川和尚の書状を紹介しておく。

「謹んで申し上げる。臨済寺より賑首座が(長禅寺へ帰山したことを教えていただいた。太守(信玄)はまったく(義信について)理解されようとしない。しかし前の非を悔み、旧悪を改めるべく、時宣をうかがい、来年か来々年に信玄に申し上げるべきかどうか。

ただし、道端の僧が告げ口や巧言でもって仲直りをさせるようにはならない。かえってその罪が十倍にもなりかねない。

三千里の外で様子を見よう。私の愚暗は欺きとなり、太守の聡明は欺きにならないだろう。賑がここに居た時と異なり、恵林寺山中は静寂になった。無事に貴人(義信と思われる)が彼の寺へ帰山されれば、必ず教えてほしい。」 つまり、この事件は信玄の誤解もあっての事と思われるが、義信の主張にも一理あり、信玄の再考が必要だと思う。

しかし、私があまりにも介入し、かえって事態を悪化させてもいけないので、しばらく様子を見ようと思うという、快川和尚の意見を春国に向かって述べた書状のようである。

このように、信玄が師と仰ぐ快川和尚、その他同様に信頼厚い優れた禅僧達の春国光新、藍田恵青らが奔走しても、解決する事が困難な程、信玄・義信父子の和解は、難しい問題であったという事だろう。

 (また、他にも、「甲陽軍鑑」によると、永禄五年の八月から信玄と義信の関係が悪くなったため、翌年の二月に、龍雲寺の北高全祝や大泉寺の甲天総寅和尚なども両者を和解させようと努力していたという。

注目すべき点として、快川和尚は書状の中で、義信の主張にも正しい点があり、信玄も誤解あっての事だとは思うが、信玄の方にも義信の言う事に耳を傾けるべき点があると述べている事である。

一方「甲陽軍鑑」の方では、信玄と義信の対立から謀反までの経緯に関しては、利根すぎた大将などと、義信が悪いという姿勢が感じられるが。

やはり、信玄と義信の対立は、尚更、正室の三条夫人一人の力で、解決できるような規模・類の問題ではなかったように思われる。

また、三条夫人と信玄の不仲だとか、三条夫人が悪妻だったからだというような、単純な問題に帰せられるべき性質のものでも、ないように思われる。また、三条夫人が上記の、日頃自分が尊崇していたと思われる、美和神社に、どうかその神威をもってして、どうか息子を助けたまえと義信の赤皮具足を奉納しているのは、これも既に紹介している、快川和尚の書状から半年後の事である事も、何やら緊迫感を感じさせる。

 

 

特に夫婦共々、普段から深く崇敬し、かつ信頼を寄せていた快川和尚の力を持ってしてさえも、どうやら父子の和解の成功が、思わしくないらしいと気付き始めてからの、彼女の中で、いよいよ焦燥と悲観の色が濃くなってきた頃であったのかもしれない。

なお、この後もひたすら息子義信の無事を案じ、事態の好転を願い続けていたと思われる三条夫人の苦悩は、更に二年近くも続くのである。息子の無事な生還を祈り続け、おそらく最後の最後まで、もしかしたらと、期待と不安の中で、絶えず揺れ動いていたのではないだろうか?

そしてこのように、武田家家中全体を巻き込む事になった、深刻な父子相克の陰で、何とか穏便に事態を解決しようとする、彼ら禅僧達の尽力があったにも関わらず、ついにこの問題>最悪の結果へと至ってしまう。 ついに義信は謀反発覚から二年後の永禄十年十月十九日に、幽閉先の東光寺で自ら命を断つ。享年三十歳であった。

 

 

この時の三条夫人の悲哀は、いかばかりであろうか。

三条夫人の息子達は次男・三男とも不運であり、その中で義信だけは唯一健やかに、武田家嫡男として次期信玄の後継者として立派に成長し、三条夫人もその将来に大きな期待を賭けていたと思われる。

夫人の生涯にとって、長男義信の死は最大の悲しみであったのではないだろうか? 彼女にとっては、この世の全てが闇に閉ざされてしまったかのような気持ちであったかもしれない。

悲運の武田信玄嫡男、武田義信の葬儀は、永禄十年の十月に、菩提寺の東光寺で行なわれた。

義信死去後、幽閉先であった東光寺で葬儀が行なわれた。

「頌文雑句」によると、この時の大導師は、長禅寺の春国光新が務めた。そして「掛真」は、説三恵燦が、「奠湯」は桂岩徳芳が、「起龕」は、南華玄材が、「鎖龕」は、大円智円が、「奠茶」は、高山玄寿が、「収骨」は、藍田恵青が、「下火」は春国光新が行なった。「葛藤集」の方では、説三和尚、快川和尚以外は、記入されている人物名は、みな同じ顔ぶれである。

しかし、それぞれ葬儀時に唱えた喝の作者が、前記の作者名とそれぞれ異なっている。

 

 これは、横山住雄氏の考察によると、一度、春国の許で葬儀が行なわれ、しばらく後に美濃から恵林寺へ戻った快川を導師として、再度正式な葬儀が行なわれた可能性もあると、このような可能性も示している。

確かに、後に説三和尚に、義信の母である三条夫人が深く帰依し、説三和尚、そして快川和尚の共に、後の三条夫人の葬儀に出席している事から考えても、こういった可能性も、あるのではないかと思われる。

三条夫人が快川和尚に帰依するようになり、後に説三が三条夫人の葬儀にも出席し、追悼の言葉を述べているのは、義信の東光寺幽閉時に、彼がここの住職を努めその後の義信の死まで見守っていた事。

そしてその他にも、やはり、当時東光寺の住職であった彼が、初め春国を大導師として行なわれた葬儀でも、導師の一人を務めていた事にも、由来している可能性があるのではないだろうか?

とにかく、当時の東光寺の住職であった説三が、その後行なわれた義信の葬儀で、導師の一人として列席していた可能性は、極めて高いと思われる。 この義信の葬儀時に、導師を務めた、長禅寺の春国光新が義信について述べたと思われる言葉には、「下火」を行なう時に、述べた追悼の言葉には「美玉良金、眼裏の埃」とある。

 

 

 

つまり、おおよその意味としては、元々は優れた素質を持っていたのに、ふとした事から目を曇らされて、このような愚行に至る事になってしまったとでもいうような意味であろう。葬儀の「奠茶」の時の高山玄寿の「惜しいかな信州太守の詔を承くべきに」という言葉によると、義信はゆくゆくは、信濃一国の統治を任される予定であったようである。

ただ、信玄はすでに勝頼を高遠当主にさせており、そこら辺の引継ぎや調整などは、一体どのようにするつもりであったのか?

しかし現実には、義信が実際に信濃国統治を任される前に、死去してしまったため、この問題に関しての具体的な信玄の意図や構想は、謎のままである。普通考えられる事として、嫡男の義信にそのまま甲府の統治を任せずに、義信に信濃国統治の方を任せようとしたということは、信玄が現在の甲斐国内の統治を任せるのは、彼には荷が重過ぎると判断したとでもいうことだろうか? 当時、甲信越の地域だけに限っても、当時隣国に強敵の上杉謙信も控えているなど。

そして武田家の家臣達の、構成の複雑さなどもあり?

しかし、どうも信玄は義信に甲斐国の統治よりも、信濃国の統治を任せようとしていたらしいという理由について、これを嫡男の義信を、信用していなかったからだとしてしまうと、従来と同じような見解になってしまうように思う。これまでのように、信玄と正室三条夫人との不和及び、側室諏訪御料人への寵愛とその息子勝頼の同様のそれに、よく大きな原因を求められてきたように。

だが私はもしもそのように、当時信玄が領国統治について構想していたとのことだというのなら、それは息子義信との不和による不信からというより、温情による配慮からだと考えたいのであるが。

義信の謀反をけして許さないという、その厳しい姿勢は、露わになっている戒名の付けさせ方ではあるが、その前の「美玉良金」という言葉からも、信玄が義信のことを、十分高く評価していたと思われる事は伝わってくる。 義信の葬儀に参列した僧侶の追悼の言葉という形を借りて、息子についてこう述べさせているということは、優れた息子を、このような形で失なうことになってしまった信玄の無念さも、強く滲んでもいるような気がする。

また、いずれは義信に信濃国一国を任せるというのは、やはり天文二十三年の八月に、義信初陣に伊那地方を攻めさている頃からの、信玄の構想であったのかもしれない。このように、横山住雄氏も著書の中で、義信の謀反前後に関して、いくつかの新事実を指摘してはいるものの、やはりこれらや「甲陽軍鑑」などから、既に判明している、いくつかの事柄だけでは、義信事件についての真相を探るのは、困難だと感じているという印象である。

 

それこそ、義信は義信で、彼なりの言い分が、様々にあった事だろう。

この春国光新の「下火」での言葉を踏まえ、横山住雄氏が指摘しているが、実際の義信の戒名は、「東光寺殿籌山玉良公」であったようである。 この「籌」とは、謀るという意味であり、普通は戒名に、まず使われそうにない意味の字である。これはやはり、指摘されているように、義信が信玄に対して謀反を起こした事を示しているのだろう。

また、横山住雄氏が引用している、「頌文雑句」中に収録の、「東光寺殿籌山良公大禅定門活動下火」の中の、春国光新がおそらく、義信が謀反を起こした事について言っていると思われる「美玉良金、眼裏の埃」という内容にも、合致しており、この戒名の付けられ方の展開は、納得しやすい。それにしても、こうして戒名の中にまで、その事がこうしてはっきりと強調されてしまうとは、信玄に対して謀反を起こしたことが、最後まで義信の生涯に、色濃く影を落としてしまったと言えよう。

更に、この時の葬儀の中で、他に注目されるべき事は、当時の義信の「掛真」、つまり、死後間もなく描かれた、追慕像の肖像画が存在していたという事である。この事実からは、謀反を起こした息子とはいえ、信玄が、かつての武田家嫡男として、正式に彼を弔っていたという事、そして義信の肖像画は、時の中で、故意に消し去られたのではないか?という可能性の、浮上である。これに関しては、上野晴朗氏も、著者「信玄の妻 円光院三条夫人」の中で、江戸時代に「甲陽軍鑑」などにより生まれた、観念的な見方から、三条夫人の円光院の最初の追慕像も、義信のそれと同様に、故意に消し去られた可能性が高いという指摘が、すでに存在している。

 

 

いずれも、武田家を巡る、大変重要かつ重大な事件であるのに、記載があっても良いと思われる、当時の「塩山向嶽禅安小年代記」や「王代記」などの同時代史料の、いずれも不自然なくらいの一切の沈黙及び、前述の当時信玄の後継者として重要な政治的立場にあったはずの義信自身の、甲府内の文書などの少なさなどについての指摘など、改めて義信事件が重大事件であり、その影響の大きさが想像される。

やはり、義信事件の処理に当たって、甲府内の当時の相当数の重要文書などの証拠が、徹底的に抹消されてしまった形跡が覗える。

つまり、このように、当時の武田家を揺るがした大事件を起こす事になった謀反人と、その生母という事に、彼ら母子がなってしまったために、その差し障り的な配慮から、彼らの肖像画がいずれも、故意に菩提寺から消し去られた可能性が、高まってきたのである。

更に義信に関しては、現在ではその位牌すらも、失われてしまっている状態であり、このような状況を考えても、十分その可能性は、あるのではないだろうか? なお、この時の東光寺の住職で、義信の幽閉を見守り、葬儀の際には導師の一人を務めたのが、成就院の住職となる説三和尚であった。この事から三条夫人が生前から説三に帰依するようになり、説三が成就院の住職になる事になったのだろう。

一方、義信の死去後、三条夫人と同じく悲嘆に暮れていたと思われるもう一人の女性、義信正室の嶺松院であるが、夫の死去後、義信との間に生まれた一女を伴い、駿河に送り返された。

そしてその後、出家し、慶長十七年八月十九日に死去した。

 

参照「武田信玄と快川和尚 横山住雄 中世武士選書第6巻 戒光祥出版」

 

東光寺仏殿
東光寺仏殿