正保四年(1647年)七月十日に、九十八歳で没」という記録に従えば、真理姫は天文十八年(1549)から天文十九年(1550)年頃の誕生となり、武田信玄の三女で、黄梅院や見性院の妹という事になります。

一応、このサイトでは武田家関連の書籍での一般的な扱いに従い、三条夫人の娘は長女の黄梅院と次女の見性院のみとしていますが、中には信玄の娘の内の一人の真理姫も、正室の三条夫人の娘とされている事があるようです。

しかし、彼女は側室の油川夫人の娘とする説も、あるようです。ですが、このいずれの説も、具体的な根拠という程のものは、ない印象なんですよね。そのため、現在に至るまでこの真理姫は、誰の娘とも、確定できない状況のようです。

 

このため、やはり、真理姫の母親は不詳とされている事も、多いです。真理姫を三条夫人の娘という設定にしている、真理姫主人公の、某歴史小説が、以前にあって、その中では例によって三条夫人は、夫と不仲の不幸な正室扱いですが。

しかし、なぜか異母兄妹(姉弟?)の真理姫と勝頼は仲が良い事になっています。

 

明らかに、具体的な描写はないものの、この娘も母親の不幸は当然知っているだろうに、異母兄の勝頼に対してこんな反応をするなんて、不自然ではないかな?と、個人的には、違和感を感じたのを覚えていますが。三条夫人が母親なのに、全然出番もありませんでしたし。おそらく、天正九年の重臣の木曽義昌の、勝頼に対する離反に際し、彼女が夫の義昌を批判したという話から、このような書き方をしたのでしょうが。

 

ちなみに、真理姫の生涯を簡略に書くと、(実際に判明している事も少ない訳ですが。)弘治元年に木曽谷に侵攻した信玄は、臣従を誓い降伏した木曽義康に隠棲を命じ、その子木曽義昌と真理姫の結婚後、しばらくは平穏な生活が続いた模様。

しかし、勝頼と累代の重臣達との確執や武田家の衰退などが目に見えてくると、おそらく穴山梅雪と同じく、武田家の滅亡も近いと判断し、自家の保全を第一に考え、勝頼から離反。信長側に走り、義昌は天正九年に弟の義豊を人質として信長に送る。

これに怒った勝頼は、人質としていた義昌の母、そして子供達の千太郎、長女を磔にして殺害。

 

 

元々、木曽義昌と勝頼も、信濃を巡り、同じく信長側に走った、穴山梅雪の場合と同じく、戦略等の意見の対立などの他にも、以前から個人的にも折り合いが悪かったフシが見られる。

このため、勝頼は警戒のために、義昌の母と嫡男の千太郎、長女を人質に取り、絶えず警護させておいた程である。この出来事により、真理姫にとっては、兄と夫、実家と婚家の両方を恨みたい、残酷な状況に立たされる。そして天正十年の三月に、武田家は滅亡。

 

その後、おそらく子供達の事などから、疎遠になっていたと思われる真理姫を、木曽義昌は家臣の上村作左衛門に預けるが、信長は承知せず、やむなく、離縁同様の処置をとったという。

そして真理姫は、御嶽方面の三岳村に隠棲を余儀なくされたという。

その後、木曽義昌は信長から安曇と筑摩二郡を与えられた。

その後の年の、本能寺の変に信長は死亡。その後豊臣秀吉により、木曽の地は没収され、木曽義昌は網戸に一万石で転封された。この時に、真理姫も夫に同行したという説もある。

 

その五年後の文禄四年の春に、木曽義昌はこの地の阿知戸城で死亡。

しかし、その後に家督を継いだ真理姫の長子の木曽義利は粗暴な性格であり叔父の義豊を殺害したという理由で、徳川家康から慶長五年に領地を没収された。

その後真理姫は末子の義通と作左衛門の屋敷に身を寄せたという。この後も、真理姫は武田家存続を企てたというが、その願いを果たせぬまま、天保四年の七月十日に、九十八歳で死去したという。

 

 しかし、彼女にまつわるこれらの話も、どこまで信用できる話なのか、はっきりとしない印象があり、真理姫の一連のエピソードも、個人的には判断を下しかねています。

武田家滅亡後、真理姫が木曽に隠棲した理由も、夫の離反を怒って自ら隠棲したという話もありますが、上記のように、信長から責められ、夫の木曽義昌から離縁される形になったという話も、伝えられていますし。おそらく、彼女にまつわる話の大部分は、「義昌公黒澤がめら系図(加めら系図)」からだと思われ、系図に記されている話となると、これまでの例からしても、微妙な感じになってくるような気がします。戦国時代からずっと一貫して保存されている系図って、なかなかないですしね。

しかも、この「義昌公黒澤がめら系図」も、写本のようですし。

 

真理姫が油川夫人の娘であるという前提に立ち、敢えて推測してみれば、やはり、同じ側室の子という分、正室を母に持つ義信などとは違い、油川夫人の子供達も、異母兄とはいえ、より勝頼の方が近しく感じやすい所かあったのかもしれません。

また、すでに彼らが成人した頃には、この勝頼が武田家当主となっていた事から、おそらく自然に彼を当主としてすぐに受け入れ、素直に従ったのだろうと考えられます。

だとすれば、もし本当に真理姫が夫の木曽義昌の離反を怒ったのだとしたら、このような背景が関係していたのかもしれません。とすれば、彼女は婚家より実家の方を重視した女性という見方も、できると思います。

 

 

しかし、前述の通り、この真理姫に関しても、曖昧な点が多く、どちらかというと油川夫人の子の可能性が高いのでは?という気がしないでもありませんが、彼女の婚姻時の年齢から考えれば、真理姫も三条夫人の娘とするのが、妥当な感じでもあり、やはり、母親を確定する程の、決定打というべき証拠は、見出すことができませんでした。

やはり、この場合は結論を出した方がいいのでしょうか、こうして考えていってみても、真理姫はやはり、三条夫人と油川夫人、どちらの娘とも確定しきれないという感じです。

しかし、真理姫が油川夫人の娘とする研究者達もいるという事は、彼女の没年には、やはり疑問も持たれているという事なのかもしれません。

武田氏研究者の笹本正治氏などは、真理姫の母は油川夫人説を、採っているようなので。