三条公頼

明応四年、(1495)三条実香の息子として生まれる。

三条夫人と細川晴元夫人・如春尼の父。

永正七年、(1510)叙爵、十一年(1514)に権中納言 。

永正十五(1518)頃、長女の細川晴元夫人誕生。

天文五年(1536)の三月、京から勅使として甲斐国こ下向。 同年の七月に、武田晴信に次女の三条夫人が輿入れ。

天文十年(1541)に内大臣、天文十二年(1543)には右大臣。

この頃三女の如春尼誕生。 天文十五年(1546)に左大臣。

しかし、経済的窮乏のためかと思われ、同年辞任。

 

 

当時、公家の生活基盤は、自分達の荘園からの収入で成り立っていた。 しかし、しだいに農民層の地位向上と武家領主達の勢力拡大により、中世を通じて崩壊しつつあったが、幕府の存在がその荘園体制を、何とか維持していた。 しかし、十一年間に渡り、京都を中心に勃発した応仁の乱が、幕府権力の衰退に拍車をかけ、これ以降、幕府は畿内をわずかに支配する地域権力へと転落。 このように将軍権力は衰退、不安定化の一途を辿り、九代から十五代までの将軍は、阿波・近江で死去、そして十三代将軍義輝は、周知の通り、いずれも、二条御所で松永久秀と三好三人衆に殺害されている。これら荘園体制の保障者である幕府の衰退を受け、荘園領有が困難となり、荘園からの収入が減少し、公家の財政が逼迫した。 そしてその結果、公家の在国という事態をもたらす事になった。

この在国というのは、公家が地方に下向し、そこに居住する事である。

しかし、公家の在国というのは、経済的な問題ばかりではなく、応仁の乱以降、細川氏や三好氏らの京都争奪の戦いが繰り広げられ、しばしば京都が戦場になった事も、原因として挙げられる。

 

 

このため、公家の中には邸を戦火で失ったり、このように不安定で、戦火が絶えない京都の状態に、生命の危険を感じ京都を脱出した者もいた。 また、経済的な問題で在国する場合にも、残された貴重な自分の荘園を直接経営するために、所領へ下向する場合がある。

公家文化を好む大名達の許へと赴き、公家社会の伝統や文化を指南して、収入を得る場合もあった。後者の場合、三条公頼が滞在していた周防は、その代表的な場所の一つであった。公家の在国理由は、これら複合的な理由によるもの。

そして周防の大津郡深川にある深川庄は、三条家の所領がある場所であり、また湯本温泉近くの興阿寺は、公頼の父である三条実香が創建したものであり、何かと三条家と周防の大内家は、関わりが深かった。

おそらく、公頼の周防への下向は、自分のこの地の荘園を直接経営するためであろう。そして上野晴朗氏が「信玄の妻 」で指摘しているように、将軍権力と同じく、長女を嫁がせた管領の細川晴元の権力基盤も、けして安定したものとはいえなかった。しばしば、彼は三好長慶に脅かされた。

また次女を嫁がせている武田信玄も、父に代わり当時信濃攻略で苦しんでいたため、比較的平穏に見えた大内家が安全圏と見たのだろう。

 

そして今川氏親や信玄に和歌を指導した冷泉為和、信玄母大井夫人の父大井信達の懇願で「八代集秀逸」の一巻を、和歌の手本として書き与えている、蹴鞠と和歌の家飛鳥井家の、飛鳥井雅康。

今川氏親や信玄に和歌を指導した冷泉為和、信玄の母大井夫人の父大井信達の懇願で「八代集秀逸」の一巻を、和歌の手本として与えている、蹴鞠と和歌の飛鳥井家の、雅康。

そして笛と装束の家三条家の、公頼も、大内義隆に笛の指導、またはこちらの大津郡の深川にある、三条家の荘園の経営のために、下向したと考えられる。

天文二十年(1551)、八月、大内義隆の築山間館に滞在していた義隆家臣の陶隆房(晴賢)が襲撃。 八月二十九日、公頼は築山館を脱出した義隆一行を追い、深川の領地を目指す途中で、隆房軍に見つかり、惨殺。

享年五十五歳。

このため三条公頼の墓所は、山口県の大寧寺にある。

「法号 泰岳院殿頑翁点石大居士」。なお彼には娘達しかいなかったようで、この後しばらく三条家は継ぐものがなかった。

その内転法輪三条家の分家の、正親町三条公兄の息子の実教が継いだ。 その後も、三条西実綱、三条西公広が継ぎ、やがて三条実万・実美の代へと続いていく。この三条実万・実美親子は、明治維新で大活躍したことで知られている。

それから、現在の京都市上京区寺町小路の梨木神社には、この二人がご祭神として祀られており、この神社の付近に、三条邸があったと推定される。

 

 

高顕院

明応四年(1495)頃誕生? 没年不詳。三条夫人と細川晴元夫人の母。

入道権大納言藤原尚顕勧修寺尚顕の娘として生まれる。

甘露寺資経の息子経俊を祖とする、勧修寺家の出身。

1511年頃、同年で三条公頼と結婚か。

1518年頃、長女誕生。 1521年、次女の三条夫人誕生。

おそらく1533年か1534年頃、長女が細川晴元に輿入れ。

1536年、三条夫人が甲斐国の武田信虎の息子武田晴信に輿入れ。

1551年、周防の大内義隆の家臣陶晴賢(当時は陶隆房)の謀反により、築山館に滞在していた三条公頼他、多くの公家が殺害される。

高顕院は夫の菩提を弔い出家か?

この後、三条公頼には息子がいなかったため、実質的に三条家は断絶状態に。 以降、分家筋に当たる正親町実教が三条家を継ぐが、子供がいなかったのか、三条西実綱が継ぎ、しかし彼も早くに死去し、三条西公広が継ぐ。彼以降の三条家は、三条実万・実美父子の代に明治維新で大活躍している。

細川晴元夫人

518年頃?誕生。 没年不祥。

 三条公頼の長女で三条夫人の姉。

おそらく天文二年(1533)か天文三年(1534)頃に、管領細川晴元の正室になる。彼女は夫の晴元より四歳年下くらいか。

晴元との間に二女をもうける。

天文六年頃、長女誕生?

長女は赤松家に、次女は有馬家に嫁いでいる。

 そ こ で私 は 、 こ の 赤 松 某 と有馬 某 と は 、 一 体 誰 の 事 な の か 考え て み る 事 に し た 。

 

こ の 赤 松 某 と は 、 赤 松 義 祐 、有馬 某 と は有馬 村 秀 の事 で は な い の だ ろ う か ?

 赤 松 義 祐 は 天 文 六 年 、 ( 一 五三七)播 磨 国 守 護 赤 松晴 政 の 息 子 と し て 生 ま れ た 。

 義 祐 の 父 晴 政 は 細 川 晴 元 と は同盟 関 係 に あ り 、 共同で 経 細 川 高 国 を 討 っ て お り 、 晴 元 と の 接 点 は 十 分 に ある の で あ る 。 ま た 、 赤 松 義 祐 の 妻 は 、 細 川 晴 元 の 娘 だ と す る 史 料も あ る 。

『 赤 松 盛 衰 記 』 と 『 村上源 氏 赤 松 家 先 祖 』 と い う 史料 に よ る と 、 赤 松 義 祐 は 細 川 晴 元 の 婿 だ っ た と い う 。

 そして赤 松 義 祐 が 生 ま れ た 翌 年 に は 、三 条 夫 人 の 息 子 の 義信 が 誕 生 し て お り 、 当 然 こ の 頃 に は す で に 彼 女 の 姉 には 、長 女 が 生 ま れ て い た の で は な い だ ろ う か ?

 

そ う す る と三条 夫 人 の 姉 は 、 彼 女 と の 年 の 差 が 最 高三年 と 考 え 、 永 正 十 六 年 ( 一 五 一 八)に 生 ま れ た と 推定 す る と 、 早 く て も 天文二年 ( 一 五三三)か 天文三年( 一 五三四)頃 に は 、 彼 女 は 細 川 晴 元 に 嫁 い で い た 事に な る 。

 

 

彼 女 が 推 定 十 八 歳 く ら い で 赤 松 義 祐 の 誕 生 とほぼ同時期 に 、 長 女 を 産 ん で い た と 考 え れ ば 、 や は り 、 細 川 氏と 赤 松 氏 と の 関 係 か ら 考 え て み て も 、 赤 松 義 祐 の 妻 が三条 夫 人 の 姉 の 子 で あ っ た 可 能 性 が 高 い よ う な 気 がす る 。

 

 

ま た 、 次 は三条 夫 人 の 姉 細 川 晴 元 夫 人 の 次 女 が 、有馬 村 秀 に 嫁 い だ 可 能 性 に つ い て 考 え て み た い 。

有馬 村 秀 は 摂 津有馬 氏 の 出 で あ り 、 こ の 氏 族 は 赤 松氏 の 流 れ を 汲 ん で い る 。 管 領 細 川 家 家 臣 で あ る 、三田城 主 で 後 に 落 落 葉 山 城 主 の有馬 村 則 の 息 子 で 、 天 文 十九 年 に は す で に有馬 民 部 小 輔 の 官 位 を 与 え ら れ 、 幕 府奉 公 衆 の 一 人 と な っ て い た よ う で あ る 。

 や は り 、 こ ち ら も 管 領 細 川 家 家 臣 と い う 事 で 、 晴 元と の 繋 が り を 見 出 す 事 が で き る 。

 た だ 、 こ の有馬 村 秀 は 生 年 が は っ き り し て お ら ず 、赤 松 義 祐 と 細 川 晴 元 の 長 女 と の 婚 姻 の 可 能 性 に 比 べる と 、 か な り 心 許 な く な る 。

そ し て 朝倉義 景 の 最 初 の正 室 も 、 『 朝倉始 末 記 』 に よ る と 、 細 川 晴 元 の 娘 だ と伝 え ら れ て い る の で あ る 。

彼 女 は 一 女 を 産 ん で 死 去 した と い う 。

朝倉義景が元服した際に、京都の将軍足利義輝の斡旋で管領である、細川晴元のこの娘を娶っている。

 し か し 、 こ の 朝倉義 景 の 最 初 の 正 室 も 、 母 親 が 誰 なの か、 は っ き り し て い な い の で あ る 。

 私 は 朝倉義 景 に 嫁 い だ 細 川 晴 元 の 娘 と い う の も 、三条 夫 人 の 姉 細 川 晴 元 夫 人 が 生 ん だ 娘 で は な い か と 考え て い る の だ 。

 

 実 は 細 川 晴 元 に 側 室 が い た の か は 、 わ か っ て い な い 。三条 夫 人 の 姉 の 死 後 は 、 六 角 定 頼 の 娘 と 結 婚 し た よ うだ が 、 彼 女 が 産 ん だ の は 、 息 子 の 昭 元 の み の よ う で ある 。朝倉義 景 の 最 初 の 正 室 が 、 晴 元 の 側 室 の 娘 と い う 可能 性 も な く は な い が 、 諸 事 情 か ら 鑑 み て 、 私 は 義 景 の正 室 は三条 夫 人 の 姪 だ っ た の で は な い か と 思 う 。

朝倉義 景 は 天文二 年 ( 一 五三三)生 ま れ で あ り 、 こ の時 細 川 晴 元 に 、 義景より数歳年下の三女 も い た とす れ ば 、 そ の 母 親 は三条 夫 人 の 姉 の 可 能 性 が 高 い よ うな 気 が す る 。

義景は十六歳の時に元服しているので、三条夫人の姉が相次いで、年子で三人の娘を生んだにしても、この推定される彼女の三女は十五歳以下ではあるが、そういう年齢でも嫁いだ例もない訳ではないので。

また「朝倉始末記」によると、この細川晴元の娘で朝倉義景の最初の正室は、娘を一人生んで早くに亡くなったとあり、もしかしてこれはまだ花嫁が幼くて母体が未熟なための、出産による死ではなかったのだろうか?

実はこうしたことは、他にもある。

信玄の最初の正室の上杉朝興の娘も、十二・三歳程に同年の晴信と結婚したが、母体が幼かったため、妊娠したが死去したとある。

しかし、ちょっとこれは大胆に想像を、膨らませ過ぎなのかもしれないが。

 

だが、朝倉義景の最初の正室が、公家の血を引く、三条夫人の姉の娘である可能性は、他の点からもありそうに思われる。

おそらく、この公家の血を引く最初の正室との結婚が、更に朝倉義景の公家への憧れを強め、今度こそは本当に公家の姫を正室に、という彼の願望へと繋がり、ひいてはそれが後年の近衛前久の娘との結婚に繋がったのではないのだろうか?

もしかしたら、公家風の教育を受けた、幼いながらも優雅な雰囲気の、否応なく義景の公家文化への憧れを掻き立てるような姫だったのかもしれない。武家風の教育も、受けてはいたかもしれないが。

 

もちろん、この義景の最初の正室が晴元の側室の娘であった可能性もなくはないが、やはりそれなりに格式と伝統のある朝倉家嫡男の義景の正室としては、晴元の側室で普通の大名の娘を生母に持つ娘よりも、晴元の正室でなおかつ、清華七家の一つである、転法輪三条家の姫を生母に持つ娘の方がより相応しいようにも思われる。

また、これも些か深読みし過ぎなのかもしれないが、将軍足利義輝直々の斡旋で、こうして彼により格式の高い妻を娶らせる事で、何かあった場合に、朝倉義景に助力を頼みたいという思惑も、垣間見えるようにも思う。

 

ま た 、 こ う 考 え て い く と 義 景 は 、三条 夫 人 の 姪 を 妻と し て も ら っ た 事 に な り 、三 条 夫 人 は 義 景 は 義 理 の 叔母 と 甥 と い う 関 係 に な る 。

も し か し て 、 信 玄 と三条 夫 人 の 義 兄 で あ る 細 川 晴 元と 、 信 玄 達 の 間 で は 晴 元 の三女 を 朝倉義 景 に 娶 ら せ ると い う 計 画 が 、 出 て い た の で は な い だ ろ う か ?

 

 

特 に 信 玄 側 か ら 見 る と 、 後 年 の 西上作 戦 の 、 武 田 ・浅 井 ・ 朝倉の 信 長 包 囲 網 の 基 礎 は 、 こ の 頃 か ら こ う して 築 か れ 始 め て い っ た の で は な い だ ろ う か ?

 

 

ただ、やはり細川晴元と三条夫人の姉の間の、それぞれ赤松某と有馬某に嫁いだ長女と二女とは違い、この三女というのは確実に系図に記録がある訳でもないので、私が少し想像を膨らまし過ぎている部分もあるのかもしれない。とはいえ、義信の三管領就任というのは、単純に母である三条夫人の家柄のせいだけではなく、やはり信玄と晴元間に何らかの交渉が存在していた可能性も、あるのではないだろうか?

 

 

そして想像される、細川晴元夫人の生活ですが。

おそらく摂津の芥川城館で、夫である管領の細川晴元の正室として、所領安堵の裁許や施行を求めてここを訪れる、山科言継を始めとした公家や寺社などの荘園領主の使者達である、多くの訪問客達の応対などをしていたのだろう。しかし、何しろ、典型的な下克上の重臣三好長慶についての本格的な研究は、いくつかあるようですが、後に敵対関係となる、細川晴元の方の本格的な評伝的研究というのが、いまだに成されていないため、(実際、いろいろと難しいらしいですが。)細川晴元正室である、この三条公頼長女の生活の生活についても、夫の動向から推測せざるを得ないのが残念です。

おそらくまだ彼女が生存していたと思われる時期は、夫の晴元が天文十七年から重臣であった三好長慶に背かれ、絶え間ない彼との戦いに突入する時期にまでは、なってはいなかったと思われる。

とはいえ、天文十年にはこれも重臣であった木沢長政が背き、この知らせを聞いた足利義晴が一時、近江に逃走という事件も起きている。

また、天文十一年には、木沢長政軍と晴元軍の三好長慶・畠山植長らとの間に「太平寺の合戦」が行なわれている。晴元軍の勝利に、終わってはいるが。そして更に続く、天文十二年には細川氏綱が背いている。

 

後半生の晴元の波乱万丈さに比べれば、まだ波乱は少ない、この細川晴元夫人の暮らしではあったではあろうが。

しかし、晴元政権は何かと不安定さも内包しており、またこのように、晴元は管領として、度々敵との合戦にも赴いている。

いろいろと勝手の違う、このような武家の暮らしに、人知れず晴元夫人の心労も、蓄積されていったのではないだろうか?

正室として、このように頻繁に戦いに赴く夫の身を案じることも、しばしばであっただろうと思われるし。

彼女は晴元との間に、二人の子も生んでいるし、更に二人目の子を生んですぐに死去という訳でもないと思うので、けして最初から特に病弱な体質という訳でも、なかったのだとは思うが。

しかし、やはり見えない所で、管領晴元の正室としての気苦労が、いろいろと身体を蝕んでくことになったのではないだろうか?

 

 

この細川晴元という人物は、三好長慶と何度か戦い、伊丹城を攻略してはまた奪い返され、そして京都へ、そして今度は京都から近江の坂本へと逃走したりなど、とにかく転変極まりない生涯を送ったようですが。

 

気になる、彼女のおおよその没年ですが。

どうも細川晴元の嫡男の細川昭元の生母である六角定頼の娘は、おそらく晴元の最初の正室であったこの三条夫人の姉の死後に、後妻として入ったようです。ということは、この昭元の天文十七年という生年から考えると、遅くとも天文十六年くらいには、三条夫人の姉である細川晴元夫人は、死去していた可能性があるようです。

たぶん二十代後半であり、かなり若くして亡くなったことになりますね。

私もそれまでも漠然とではありますが、おそらく最終的に夫の晴元が普門寺に隠棲させられて晩年の最後の日々を過ごし、ここに埋葬されているというのに、正室であるこの細川晴元夫人の墓所がないのは、たぶん彼女の方は彼より数年先に、既に死去している可能性が高いからではないか?とは思ってはいましたが。

 

それから、この天文十六年前後に、おそらく細川晴元夫人は死去していたのではと思われますが、この頃の天文十五年の六月には、信玄が京から下向してきた三条西実澄や四辻季遠を迎えています。

この時に、三条家の分家の人物である、三条西実澄から、三条夫人の姉である細川晴元夫人の容体が悪いなどの話が、出ていた可能性もあるかもしれませんね。また更に、この天文十五年の夏には、将軍の足利義晴と管領の晴元が対立し、義晴は出奔、そしてその後、彼の軍と晴元軍の間に合戦が勃発などの出来事が起きていますし。

当然、甲府に下向した彼らと信玄らの間では、これらの話も注目の話題となっていたことも、十分考えられると思います。

 

 

とはいえ、既に三条夫人が一足先に、彼女の母から文で長女の体調が良くないということくらいは知らされていたかもしれませんが。

ですが、三条夫人がやはり京に住んでいる三条西実澄などの人々の口から、直接姉の容体について改めて聞きたいと思ったとしても、不思議ではないと思いますし。

もしかして、この天文十五年の、三条西実澄と四辻季遠の甲府への下向は、この三条夫人の姉で管領細川晴元の正室である細川晴元夫人の健康が優れないという報告も、兼ねていたのかもしれないですね。

 

それにしても、この細川晴元夫人も、短いとはいえ、管領の細川晴元の正室として、なかなか苦労の多い生涯だったのではと思います。

もしかしたら、これらの心労の多い生活が、彼女のその寿命を縮めてしまった所も、あるのかもしれませんね。

当時では最も不穏な地域であったと思われる、複雑な諸勢力が絶えず衝突を繰り返す畿内に君臨し、しかも必ずしもその権力基盤は盤石ではない管領の細川晴元の正室という、公家の姫にとっては、なかなか大変な暮らしだったと思います。

一見、管領の正室などというと、いかにも晴れがましい栄光の立場のように思われるものの、どこか薄氷の栄華のような感じですね。

つくづく、三条公頼の三人の娘達の中では、一番平穏な生涯を送ったのは如春尼という感じですね。

もちろん、本願寺もしばしば、各大名達とも密接な関係を持っており、けして世俗の権力とは全く無縁ではないとはいえ、やはり世俗権力そのものという感じの武家と宗教界という違いかなと思います。

この如春尼が三姉妹の中では、一番の長寿も全うしていますし。

おそらくこの早過ぎる姉の死に、三条夫人ら三条家の人々も大変悲しんだことだと思います。しかも更に、これに引き続き、数年後の天文二十年には、三条夫人の父である三条公頼が周防の築山館で大内義隆の重臣の陶隆房に襲撃され、命を落としていますし。

本当につくづく、三条夫人はその一生を通じて、数多くの身内の不幸に遭い続けた人なのだなと思いますね。

世の中の無常を感じることも、多かったのでしょうね。

 

姉の細川晴元夫人 早死

 

父の三条公頼 惨殺

 

長男の義信 自害

 

三男の信之 早死

 

長女の黄梅院 早死

 

それにしても、こうして見ると、もしかして、三条夫人の身内で早死していないのって、母親の高顕院と妹の如春尼と次女の見性院くらい?

ここまで三条夫人が身内の不幸続きで、更にどうやら彼女の同母姉の細川晴元夫人も早くに世を去っていたらしいとなると、かなりの年齢差などもあり、一度も対面したこともないままであっただろうとはいえ、わずかに残された三条家関連の肉親である如春尼に対しては、彼女も大変に親近感を覚えたのかもしれませんね。

 

 しかし、このように三条夫人の姉の細川晴元夫人がかなり早くに死去していらしいことから、細川晴元夫人の墓の所在が一向に判明しないのも、納得しやすくはありますが。

彼女の死去後も依然として、夫の晴元は相変わらず、三好長慶との戦いに明け暮れて相変わらず大変だし、実家の三条家も、父の公頼の横死後に一時断絶とか、いろいろと大変でしたし。

おそらくこれらの混乱から、いつしか彼女のその墓の所在も、わからなくなってしまったのでしょうね。

上野先生も指摘している通り、最も戦国の武家の荒波に揉まれたのは、この三条公頼の長女かもしれませんね。

残念ながら、このようにどうも細川晴元夫人は早死していた可能性が高いということで、三条夫人のその管領の正室である姉の細川晴元夫人を通した具体的な役割という仮説も、難しい感じになってきましたね。

しかし、細川晴元という人物の生涯については、判明しない部分も依然として多い訳ですし。

細川晴元夫人の生存時は、記録上からは読み取りずらいながらも、畿内の複雑な勢力図も相まって、いろいろと更にこれに妹の三条夫人をも含めて、彼女達も通した人脈が何か生きていた部分もあるのではないのでしょうか?数回くらいは、信玄と晴元との間に、何らかの接触があった時があったのでは?とか。

 

 

それにしても、おそらく文で姉の消息を聞くにつけても、三条夫人は、比較的平穏な地方の方に下向した自分は、恵まれていると思ったのではないでしょうか?もし彼女も機内のどこかの有力大名などにでも嫁いでいたら、それこそ、この姉のように、気ぜわしく、常に日々激変する、夫の戦況に一喜一憂するような、心をすり減らすような日々になってしまったように思いますし。当時、機内は諸勢力の衝突が、大変に激しい地域でしたからね。上野晴朗氏も指摘しているように、この三条家の三姉妹の中で、最も武家社会の荒波に翻弄されたのは、この公頼の二女かもしれませんね。

如春尼

天文十二年(1543年頃?)―慶長三年(1594年)

三条公頼の三女。

 十二歳程の年の差から考えて、おそらく三条夫人の異母妹かと思われる。父の三条公頼の生活苦のためか、細川晴元の猶子(養女のようなもの)になり、その後は晴元家臣の六角定頼の猶子になった。1557年の4月17日、如春尼は本願寺門主証如の息子茶々(顕如)に輿入れする。

もしかしたら、如春尼が本願寺に嫁ぐ事になったのは、三条家が信仰心が篤い家風という事からも、この縁談話が出てきたのかもしれない。

 

如春尼輿入れの翌年の永禄元年(1558)9月16日に、長男の教如が誕生する。

永禄三年には女児が誕生。

永禄七年正月二十二日には、次男の佐超が誕生。

天正五年七月十九日には、三男の准如が誕生。

   顕如と如春尼の夫婦仲は良かったようであり、多くの子に恵まれた他にも、天正十六年の七夕には、以下の和歌を詠み合っている。

いくとせも ちぎりかはらぬ 七夕の 

けふまちへたる あふせなるらん

 いくとせの かはらぬ物を 七夕の 

けふめづらしき あうせなるらん

 

 

この夫婦は長年に渡り、織田信長との戦いに明け暮れた。

 この時の武田信玄との連携には、おそらく三条夫人と如春尼ら姉妹の協力も背景にあったのではないかと思われる。本願寺と武田家の連携は、勝頼の代になってからも続いている。

天正二十年十一月二十四日、如春尼は夫顕如と死別した。

 

 顕如享年50歳。

 

夫に遅れる事五年、如春尼は慶長三年の正月十六日に死去した。

 

 なお、本願寺には、夫の顕如上人と共に描かれている如春尼の肖像画があり、「信玄の妻―円光院三条夫人 新人物往来社」にも収録されている、上野晴朗先生が西本願寺を訪れた時に見たという肖像画は、この事だと思います。如春尼は、右手に数珠を持ち、頭巾を被った姿で上畳に座っています。着物の柄に描かれている、唐草模様の中に、三条家の家紋である梨の花も描かれているようです。この如春尼の肖像画は、「顕如上人ものがたり 千葉乗隆の「本願寺出版社」の、カラー口絵で見る事ができます。

 

 

 

正親町三条公兄

明応三年(1494)―天正六年(1578)。

正親町三条実望の息子。そして実望の正室は、今川氏親の姉。

最終官位は、内大臣。公兄は、元亀元年(1570)の四月二十一日に、甲府に下向しており、これは三条夫人の病気見舞いが目的だったと思われる。天文五年(1536)の夏には、同じ正親町家の、正親町公叙が信玄と三条夫人の結婚の見届け役として、甲府に下向し、帰京した九月二十三日に、酒饌を献じている。

また、正親町三条公兄自身も、天文十六年七月二十七日に、甲府に下向している。

天文二十年の九月一日に、三条公頼が不慮の死を遂げた後、息子がいなかった公頼の跡を、正親町三条公兄の息子の実教が継いでいる。

おそらく、正親町三条公兄が、三条夫人の父の三条公頼亡き後、三条夫人の後見的立場にあったと思われる。

天正六年に死去。